織田信長の末孫
織田家系図:織田信長を祖先に持つ
信長の死後
信長が本能寺において明智光秀に滅ぼされた後、伊予西条の一柳藩主に仕え客分で賄料五百石であったが若い藩主・丹後守の乱行を諌言したが受け入れられず一柳家断絶の前、承応元年(1652年)3月、家財を船積みして出奔、浪々の身を知人であった岩城村の郷士「門野五郎兵衛」のもとに一時身を寄せた。
佐島へ
しばらくする中に、近くの佐島村の福羅に恰好の家屋敷付、一町三反の売り物が出たのを知りこれを買い受けて佐島に移り住んだ。
信義の室者は芸州広島の家中で浅野玄藩大名格の息女であった。
転機、イノシシ狩り
寛永12年3月10日、今治藩主・藤堂高吉が大島で猪狩りを催した。
大島・伯方・上島からも16才から60才までの男は勢子として多く召し出された。
多くの者は鳶口や竹槍など思い思いの物を持って行ったが信義は半弓の達人であったので弓を持って出た。
今治藩主から鵜島を拝領する
猪が多勢の中を飛越え逃げ走りながら藩主の方に真一文字に向かってきた折、幸い信義がその場に居合わせ半弓にて只一矢にて射止めた。これが藩主の御目にとまり早速にお呼び出され村所・姓名を尋ねられ則、盃をくだされご褒美として鵜島の領有を許された。
以来、鵜島の組頭役を代々勤めることになる。
福羅家と共に鵜島へ
それ以前の鵜島は佐島の支配下であり佐島村から福羅長三郎が派遣されていて「田畑などは作り余り、薪などは炊き余る」から信義に再三にわたり、住み易い環境であるから早く鵜島に移住するよう説得を繰り返した。
わずか3~4年の間、佐島に住んだ信義は二代目を佐島に残し同じく佐島の福羅地区に住んでいた鵜島福羅家の開祖・福羅弥三右エ門と一緒に明暦元年(1655年)3月、信義52才の時、佐島から鵜島へ入植した。
島の南、宮下港に面した墓地に織田治郎左衛門信義の墓はある